2006年 10月 17日
なぜ今日は林さんにきていただいたのか |
本日の授業に先立って書いた文章です。文責は全て佐藤にあります。長文お許し下さい。
昨年夏に、総合大学にあって写真教育をどのように進めていくのか、という趣旨のシンポジウムを企画し、その趣旨に賛同して頂いて、パネラーとして林道郎先生にご参加頂きました。事前の打ち合わせも含め、そのときの印象が大変強く残っています。
そこでは、都市社会学の先生と美術評論・写真評論の先生方とが、写真教育や写真をどのように読み解くのか、ということをめぐっての議論がありましたが、美術評論という閉じたサークルでの議論ではなく、社会学の先生も十分に巻き込んで、我々が日常的に、「ああ、そうだったよな」と感じていること、感じているけれど言葉にならないことを言葉にしてくれる、というすごく知的な興奮を催す体験をしたのでした。
そのシンポジウムは大変内容があって、濃かったにもかかわらず、残念ながら来場者が大変少なくて、これは企画者であるこちらとしては、大変悔しい思いをしたわけです。学生も呼んだのにちょっとタイトルが渋すぎてこなかった(「総合大学における写真教育の未来」)。たぶんホットな議論があるということをタイトルからは想像できなかったと思うんです。あるいは何かについて言葉を交わし合うということの面白さとその意味あいを、学生たちは実はあまり分かっていないのではないか、そしてぼくら教員側もそうしたことをきちんと伝えていないのではないか、という反省もありました。ともかくそのシンポジウムに関しては、こちらの努力不足だったということですが、あのときに感じたずしりとくる中身のある体験を、僕としては学生の皆さんにも味わってほしいなあ、という思いをずっと持っていました。それで今年2月に卒業制作の講評会があったときに、また、わざわざおいでいただいて、学生の作品がずらりとかかるギャラリーで3時間以上でしょうか、立ちっぱなしでお話をいただきました。その時も他のお客さんも含めて、ほとんどの人が帰らないでその場にいました。私もそのお客の一人でしたが、これは驚異的なことでありました。それはひとえに卒業制作の作品に対して、放たれた言葉、林さんの言葉で言えば「記述する」行為の魅力だったのではないかと思います。作品の細部にまで目を配って、言葉にしていくこと。それまで言葉になっていなかったことを言い当てていくこと。そうした作業の強さを感じました。それこそが批評の仕事なのでしょう。
今日お配りした資料も林さんと打ち合わせをさせていただいたときに、写真や映像を学ぶ学生だけでなく、建築や都市デザインの学生でも入りやすいであろう題材として廃墟を撮影しているということで知られる宮本隆司さんの展覧会のカタログに林さんがお書きになった解説をお配りしました。その中でも宮本さんの写真について語るときに、写真そのものを通り越して、廃墟について語り出してしまうということに違和感を唱えておられます。
今回はセザンヌの絵を皮切りにして様々なイメージを題材にお話し頂きます。これも我々実作中心の学校にあっては、作品を読むということが必要性を深く認識してはいるのだけれど、そのための方法論などを学校として積み上げて来たわけではないし、そのために特に時間を割いているわけではなくて、学生や先生、個人個人の力量によっていたし、今もそのような状況だと思います。おそらく今日は作品のさまざまな細部にまで目を配った記述の力と記述することの意味を目の当たりにできるのではないかと思います。
実は我々空間映像科は来年度に向けてテキストブックを作ろうとしています。そこでは、より中身のある、本質的な部分を展開させていきたいと考えています。そのための根本的な疑問、例えば、作品っていうのは何? あるいは、オリジナリティっていうのは何だ、とか、なぜ学校という場が必要なのか、といった教育の哲学に関わる部分を見過ごさないものでありたいと思っております。
とにかく、知的インフラを拡充させること、これが総合大学を背景にした我々ならできるし、またそれを求められていると思うのです。
今日は大変長丁場ですが、どうぞよろしくお願い致します。
昨年夏に、総合大学にあって写真教育をどのように進めていくのか、という趣旨のシンポジウムを企画し、その趣旨に賛同して頂いて、パネラーとして林道郎先生にご参加頂きました。事前の打ち合わせも含め、そのときの印象が大変強く残っています。
そこでは、都市社会学の先生と美術評論・写真評論の先生方とが、写真教育や写真をどのように読み解くのか、ということをめぐっての議論がありましたが、美術評論という閉じたサークルでの議論ではなく、社会学の先生も十分に巻き込んで、我々が日常的に、「ああ、そうだったよな」と感じていること、感じているけれど言葉にならないことを言葉にしてくれる、というすごく知的な興奮を催す体験をしたのでした。
そのシンポジウムは大変内容があって、濃かったにもかかわらず、残念ながら来場者が大変少なくて、これは企画者であるこちらとしては、大変悔しい思いをしたわけです。学生も呼んだのにちょっとタイトルが渋すぎてこなかった(「総合大学における写真教育の未来」)。たぶんホットな議論があるということをタイトルからは想像できなかったと思うんです。あるいは何かについて言葉を交わし合うということの面白さとその意味あいを、学生たちは実はあまり分かっていないのではないか、そしてぼくら教員側もそうしたことをきちんと伝えていないのではないか、という反省もありました。ともかくそのシンポジウムに関しては、こちらの努力不足だったということですが、あのときに感じたずしりとくる中身のある体験を、僕としては学生の皆さんにも味わってほしいなあ、という思いをずっと持っていました。それで今年2月に卒業制作の講評会があったときに、また、わざわざおいでいただいて、学生の作品がずらりとかかるギャラリーで3時間以上でしょうか、立ちっぱなしでお話をいただきました。その時も他のお客さんも含めて、ほとんどの人が帰らないでその場にいました。私もそのお客の一人でしたが、これは驚異的なことでありました。それはひとえに卒業制作の作品に対して、放たれた言葉、林さんの言葉で言えば「記述する」行為の魅力だったのではないかと思います。作品の細部にまで目を配って、言葉にしていくこと。それまで言葉になっていなかったことを言い当てていくこと。そうした作業の強さを感じました。それこそが批評の仕事なのでしょう。
今日お配りした資料も林さんと打ち合わせをさせていただいたときに、写真や映像を学ぶ学生だけでなく、建築や都市デザインの学生でも入りやすいであろう題材として廃墟を撮影しているということで知られる宮本隆司さんの展覧会のカタログに林さんがお書きになった解説をお配りしました。その中でも宮本さんの写真について語るときに、写真そのものを通り越して、廃墟について語り出してしまうということに違和感を唱えておられます。
今回はセザンヌの絵を皮切りにして様々なイメージを題材にお話し頂きます。これも我々実作中心の学校にあっては、作品を読むということが必要性を深く認識してはいるのだけれど、そのための方法論などを学校として積み上げて来たわけではないし、そのために特に時間を割いているわけではなくて、学生や先生、個人個人の力量によっていたし、今もそのような状況だと思います。おそらく今日は作品のさまざまな細部にまで目を配った記述の力と記述することの意味を目の当たりにできるのではないかと思います。
実は我々空間映像科は来年度に向けてテキストブックを作ろうとしています。そこでは、より中身のある、本質的な部分を展開させていきたいと考えています。そのための根本的な疑問、例えば、作品っていうのは何? あるいは、オリジナリティっていうのは何だ、とか、なぜ学校という場が必要なのか、といった教育の哲学に関わる部分を見過ごさないものでありたいと思っております。
とにかく、知的インフラを拡充させること、これが総合大学を背景にした我々ならできるし、またそれを求められていると思うのです。
今日は大変長丁場ですが、どうぞよろしくお願い致します。
by waseda_step21
| 2006-10-17 17:49
| ゲスト授業・講演